ピエール=オーギュスト・ルノワールの「団扇を持つ少女」

実際の作品の鮮やかな色彩に、小さい作品ながら、色彩の鮮やかさが多くの人を魅了する作品である。このモデルとなった人物は、コメディー=フランセーズの人気女優であったジャンヌ・サマリー。当時流行していた英国風タータンチェックの旅行着を着ている姿や、手に持たれた日本の団扇など、当時の流行を取り入れた作品といえる。1878年のパリ万国博覧会の開催によって、ジャポニスム(日本趣味)が大流行していた時期でもあり、団扇のほか、当時の流行の花でもあった日本の菊を思わせる花々が描かれている。

ルノワールは、元々磁器の絵付職人であったのだが、くしくも日本とフランスを含んだ西洋諸国との通商条約が締結された1858年、産業革命や機械化の影響は伝統的な磁器絵付けの世界にも影響し、職人としての仕事を失ったため、画家に転向した。ルノワールは、職人としての確かな目で、当時の流行であった日本の工芸品に対しては興味を持っていたのである。一時、この 《 団扇を持つ少女 》 や 《 読書するカミーユ・モネ夫人 》 で団扇を効果的に使ったり、他にも日本の屏風や唐傘などを使った絵を描いている。ところが、ルノワールは、当時評判が高かったシャルパンティエ夫人が自邸で催すサロンに出入りし、文化人や芸能人の知己を得ていたのだが、当時の裕福な家では、日本趣味が流行っており、裕福な出版業者ジョルジュ・シャルパンティエ家も例外ではなかった。 そして、あるときルノワールは、シャルパンティエ家などで、あまりに日本の物が溢れかえっていたので、辟易して、かえって 嫌いになってしまったそうである。 《シャルパンティエ夫人と子供たち》1878年、メトロポリタン美術館

《団扇を持つ少女》は1881年の製作なので、シャルパンティエ夫人のサロンに出入りしだしてから、すぐに日本趣味が嫌いになったわけではないようである。

当時、いかに団扇が流行っていたか。もちろん、団扇のみが流行っていたのではなく、大流行していた日本趣味のうちの一つのアイテムとして流行っていたわけだが、団扇への熱狂振りは注目すべきものがある。「扇子」ではないのである。下の絵画たちは、同時代の様々な画家の手による「団扇を持った女たち」である。

左 George Henry, 《Geisha》1894
中William Merritt Chase 《 Pivoines》 1897
右 Olga Boznanska 《Japonka》1889

左 Alfred Stevens(1823-1906)
右 Pedro Sáenz y Sáenz (1863-1927)
ほとんどすべての画家といっても過言ではないほど団扇を扱っている絵は多く、大変なブームであったことがわかる。美術品の日仏貿易は、19世紀後半には圧倒的に仏側の輸入超過であった。 当時のパリの人口は、1851年105万3000人、それが産業革命期の人口大増加で、  1881年には224万に倍増である。ほぼ、現在のパリ市の人口と変わらない。そして、前述したように、1872年の明治政府による輸出統計によれば、扇子が約80万本、団扇が100万本である。すなわち、仮に1872年のパリ市人口を150-200万人と推測すると、子供や老人を除けば、ほぼ一人に団扇1本となる。もちろん、この輸出統計は、対フランスのみではないので、欧米数カ国分として割り引いても、いかに団扇や扇子が大ブームであったか容易に想像できるであろう。