美術貿易品としての団扇

「ジャポニズム」(日本趣味)というのは、鎖国時代の後、わが国が西洋と貿易するようになって、たのではない。16世紀より、オランダまたは中国経由などで、鎖国中も通じて、日本の美術工芸品は欧州に渡っていた。18世紀のロココの時代の少し前には、オーストリア・ハプスブルグ家の女帝マリア・テレジアは金の蒔絵が美しい漆器をコレクションしていたし、その遺産は娘のフランス王妃マリー・アントワネットに引き継がれ、時として宝石よりも高価で価値あるものとして評価されていたのである。あるいは、例えば長崎のオランダ商館長を勤めたオランダ人ティチングは、晩年パリに移り住んだため、その蒐集品がパリの一部の人の目に留まったことは、想像に難くない。実際、1827、1829、1832年と パリでの売り立てに、彼のコレクションのものが出ている。

そして、長い鎖国時代を経て、1853年にアメリカのペリー提督が浦 賀に上陸し、正式に開国、通商条約を結んでからは本格的に貿易が始まるのだが、すでに、まさにその開国の 交渉と貿易の開始のために当然のことながら多くの西洋人が日本の地を踏んでおり、その中にこの国の美術に惹かれて日本の美術工芸品を大量に持ち帰った者も少なくなかった。日本と西洋のあいだの正式な貿易が始まったのは1859年だったが、すでに1854年以降、フランスの貿易港ル・アーヴルで、中国と日本からの積荷が増えたという記録がある。モネは、16歳だった1856年にはじめて浮世絵を見て深く感動した、と晩年になって知人に語っている。モネは、青年時代にル・アーヴルに暮していたのだから、そうした早い時期に日本の美術品を見たことはありえないことではない。さらにそれ以前、ペリー来航直前の1852年に、のちにヴィクトリア・アルバート美術館となるロンドンの装飾美術館は、日本の漆工や陶磁器を購入していた。これらは、もちろん日本政府との正式・直接な通商によるものではなく、第三者によってもたらされたものであろう。

こうした日本からの美術工芸品が、どのような経路をたどってヨーロッパに輸入されたのかはよく分かっていない。一部はオランダ経由だったにちがいないが、 また一部は日本が交易をしていた中国で西洋人が購入したものだったと考えられる。

つまり、鎖国時代の17世紀からすでに、日本の工芸品に対する強い愛好熱があったのである。そして、正式な貿易が始まる前に、日本のものを手に入れることは、一部の階級に限られていたかもしれないが、十分に可能であったのである。だから、ゴンクールとボードレールがパリで浮世絵を「発見」したのは1861年で、貿易が本格化したほんの2年後だったかのように一見みえるが、そうではなく、彼らが始めて目にしたのは1861年だったかもしれないが、浮世絵自体は、もっとずっと以前に欧州に入ってきていた、と容易に推察できる。 つまり、日本との正式通商以前に、もちろん、1867年のパリ万博以前に、日本のものを買うことは比較的容易にできたのである。

そして初期来日者が共通して見せた日本の美術工芸品への好奇心には、審美的・趣味的・異国情緒的な面があったのはもちろんだが、商業的な意味で、輸出品として注目していた、ということがある。あれだけ熱狂的に蒐集・持ち帰っていたのだから、貿易額にも反映していそうである。 開国直後の1861年の横浜港における輸出額の上位4品目は、生糸(183万ドル、全体の68%)、茶(45万ドル、17%)、銅(10万ドル、4%)、漆器(4万ドル、1%)となり、とりわけ生糸が突出していて、次に茶がめだっている。これ以後しばらくの間、美術工芸品としては漆器とならんで、陶磁器・金属器などが顔を出すことがあるが、それぞれ全体の1%以下の額でしかない。要するに、金額として美術工芸品は大きくなかったし、その中で絵画・版画などは、微々たるものでしかなかったのである。もちろん、この時期の統計は、数と正確さに欠けるのだが、それでも、輸出統計の項目に絵画的な要素を含む工芸品が現れるのは、10年後の1872年である。(統計資料が豊富ではないため、もちろんその前にすでに扇や団扇はかなりの数になっている可能性は大いにある) その10年の間に、2回万国博覧会があった。1862年ロンドン万国博覧会、1867年パリ万国博覧会。1859 年にイギリスの外交代表として来日し、やがて初代駐日公使になるラザフォード・オールコック卿は、滞日中に蒐集した600点にものぼる美術工芸品を1862年のロンドン万国博覧会に出品した。日本側からみれば、これはオールコック卿の斡旋による展示、である。 1862年にはもう一つジャポニズムにとって重要なできごとがあった。パリでドゥゾワの開店である。中国や日本の美術工芸品を扱う店としてポルト・シノワーズと並んで有名になりつつあった。1864年、ドゥゾワの店で、ティゾがモデルに着せるため、日本の着物を買い占めた、と記される。

1863-64年に描かれたのが、ホイスラーの《陶磁の国の姫君》。この絵で、彼は1枚の団扇を壁に斜めに貼っている。もう一つ1864年の《白のシンフォニーNo.2》では、女性はそれとは異なるタイプの団扇を手にしている。 ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー(James Abbott McNeill Whistler, 1834-1903)は、19世紀後半のアメリカ人の画家、版画家で、ロンドンとパリを往復しながら活動していた。ホイスラーは1860年代を通して、特にロンドン万博以降、デッサンや水彩などで繰り返し、数枚の団扇を壁に散らした情景を描いている。彼が実際に自宅でそうしていたことは、当時の室内写真からも確認できている(American Magazine of Art 12 ( September 1921))。

1867年のパリ万国博覧会。これは、日本がはじめて国として出展した万博である。イギリスやフランスの外交使節が驚いたことに、すでに下田には、1858年から日本の物産を外人へ売却する公的組織が作られていた。たとえば、漆器は、地方の職人の手になるものではなく、間違いなく江戸から下田へ届けられたものであり、下田の市場では、幕府が外国外交団への物品、とくに漆器の販売権を独占していたのである。

1872年の明治政府による輸出統計に、「扇子」「団扇」(うちわ)「屏風」といった絵画的な要素を含むものが、はじめて品目として登場する。この中で扇子と団扇は、金額として漆器のそれぞれ8分の1、10分の1でしかないが、数量としては扇子が約80万本、団扇が100万本にのぼっている。しかし一方、幕末・明治期を通して、「浮世絵」「版画」などという品目は貿易統計に一度も登場しない。それには、いくつかの理由が考えられる。たとえば扇や団扇は、単に「絵画」としての価値だけではなく、「実用品」としての側面も持っている。であるならば、大部分が新しく製造された新品であり、破れたり、擦り切れた骨董品、といえば聞こえはよいが、中古品をではなかったことであろう。しかし浮世絵(錦絵・版本)は、かならずしも新品である必要はなく、日本で愛好家・骨董屋などのもとに堆積していた古いものも輸出されたはずである。扇子・団扇が「製品」として一定の価格・税額を決められていたのに対して、「中古 の浮世絵の価格は、確定しにくかったにちがいない。また、そもそも浮世絵は、陶磁器を包む紙として、などぞんざいに扱われていた経緯があり、それらは輸出するともなく輸出されてしまった、ということもあろう。そのために、輸出品目にはのらなかったのである。 特に、明治に入り、団扇は外国人の目に留まり輸出品としての可能性が見出されたため、団扇の工芸品的価値を高めて販路を拡大する試みがなされた結果、著しい輸出量の増加、となったのである。ここにきて、日常生活のものであった団扇が、工芸品として飛躍したことになる。 パリ万国博覧会後、輸出統計に見られるように団扇の輸出が増加したであろう当時を思わせる1872年作の2枚の絵画。

左側はホイッスラーが大きな影響を受けた、アルフレッド・スティーブンス(Alfred Stevens, 1823-1906)の《日本風のパリジェンヌ》(La parisienne japonaise)。団扇を手にしている。ベルギー人画家で、1844年からパリに居住。1860年から主題を変え、衣服の美しさを描き、ナポレオン3世の帝政下宮廷でもてはやされた。ホイッスラーと共に日本版画・浮世絵に熱中した。1867年のパリ万博では最優秀賞を獲得。レジオンドヌールも受賞。マネの親友でもある。 右側は、ルノワールによるモネの妻、カミーユ夫人を描いたもので、「読書をするカミーユ・モネ夫人」(1873(クラーク・アート・インスティチュート)。壁面に団扇を散らして貼り付けてある。モネもまた日常的に壁に団扇を貼っていたらしいことがうかがわれる。彼女は、2年後の1875年には、日本の着物を羽織って、団扇の散らされた壁面を背景に、ポーズをとることになる。かの有名なモネの《ラ・ジャポネーズ》である。

《団扇を持つ女―ニナの肖像》が描かれたのは、1873-1874年。すでに、団扇が大量に輸入されている頃である。同時代のありとあらゆる画家が、団扇をはじめとする日本の美術工芸品を絵画に描きこんでいる。

左は、同じくアルフレッド・スティーブンスの《団扇を持つ女》(1873)。 右は、アンリ・ファンタン・ラトゥール(Henri Fantin-Latour)《花と静物》( Fleurs et objets divers, 1874)。ホイッスラーと親しくしており、ロンドンへも紹介された。