水うちわ・岐阜うちわの可能性

岐阜団扇の年産は、明治5(1872)年は約1万本、明治8(1875)年には、約5万本であった。その後生産量は次第に伸び、明治36(1903)には年産147万本である。
その何割が輸出されていたかは定かではないが、1872年の輸出統計ですでに100万本を記録していた年の岐阜団扇の年産が約1万本であることから、割合としてはかなり小さなものである。当時の輸出団扇の大需要者は、鉄道会社などが客に配る広告団扇を大量に必要としたアメリカであったが、それでも、印象派の画家たちの初期の絵画にあらわれる団扇を岐阜団扇、と推測することは少々無理があると思われる。
しかしながら、「明治13年以来の改良考案」という団扇業者の記述が残っていることなどより、明治10年代より従来の塗装団扇に改善が加えられ、堅牢さ、優美さに向上が見られる。逆にいえば、明治10年ごろまでは、漆塗団扇が岐阜団扇の特徴であった。明治19年(1887)に勅使河原氏が、雁皮紙を用い、ニスでコーティングされるため耐水性があり、水のように透ける事からこう呼ばれる水団扇を考案したとされる。印象派の絵画は、もちろん油絵がほとんどであるため、「雁皮紙にニスのコーティング」された団扇を描いているように見えるが、1887年以前に描かれたものは、物理的に水団扇であることは不可能である。
であるため、大きな事例として取り上げた、マネの《団扇と婦人(ニナ・ド・カリアスの肖像)》(1873-4)に描かれている団扇も、ルノワールの《 団扇を持つ少女 》(1881)で少女が手にしている団扇も、水団扇であることは、何か特別な稀有な事情(初期の実験的サンプルなど)がない限り、不可能であると思われる。

さて、明治11年(1878)7月27日付けの地方新聞、朝野新聞では「厩橋の団扇は幕府以来年々上景気にて、殊に近年外国人が二万、三万の注文にて、前々より勢いよしという」という記述が残っているように、岐阜団扇は、毎年飛躍的に生産量が伸びていたようである。
生産量増加は、日本全国の団扇生産地にみられたことであるが、ことに岐阜団扇は、品質向上の努力をしたことにより、評価が年々高くなり、各地の博覧会でも評価されるようになった。特に、明治33年(1900)のパリ万国博覧会では、岐阜提灯、日傘とともに出品された団扇が、「団扇日傘」で銀牌を受賞し、現地での評判もよく、販売も好調と記録されるにいたるようになった。
であるため、1880年代、1890年代と進むにつれ、芸術家として厳しい審美眼を持っていた画家たちが絵画の中でモデルにもたせた団扇も、質のよい岐阜団扇であった可能性が高くなってくる。